初めて訪れる街で湧き上がる高揚感が、昔と比べると明らかに薄れている。
”土地”に対する琴線が、何かしらの意味において変化している。
長崎市。
九州は長崎県の県庁所在地。
人口41万人弱。面積およそ400㎢。
海外の文化が多様に流入したことで、異国情緒の漂う街。
9月12日早朝、東京を出発してより5日を経て、到着である。
長崎に住む友人・F君の家に着いたのは、午前8時頃だった。
鳥取からの移動を終え、福岡駅の近くの漫画喫茶に泊まったのち、6時前に福岡市を発つ。ヒッチハイクをしようか迷ったが、生憎天気もぐずついていたので、早朝初のバスで長崎へ向かうことにする。
バスの中で眠っているうちに、バスはいつの間にか長崎市内に入っていた。時計を見ると、午前8時。2時間ほどで到着してしまった。正規の交通機関の速いこと速いこと。
降車し改めて顔をあげると、見知らぬ街の風景が広がっている。
行き交う路面電車。
高低差の激しい土地。
その険しい坂にぎゅうぎゅうと軒を連ねる家やアパート。
心なしか狭い歩道。
最初の目的地、長崎市に到着。
湧き上がる感情は、達成感というよりは安堵に近い。
ここまでの過程の中で、緊張と高揚はよっぽど味わってしまった。
修学旅行は出発前が一番楽しい。旅行は、予定を立てているときのほうがわくわくする。
目的地までの道のりの中で、これから何か起こるかもしれない『可能性』の中での揺蕩いに愉悦を見出し、いざ辿り着いてしまえば、空気の抜けた風船のように腑抜けて、『現実』に無気力にへたり込んでしまう。期待と不安の揺れ動く、曖昧さのただ中で浮遊しているのが心地よい。着地してしまえば、そこはもう、凝り固まった現実だ。
Fの家は、バス停から歩いて10分ほどらしい。
今日から2泊ほどさせてもらう予定である。何も持たずに行くのも憚られるので、途中セブンイレブンに寄り、フェットチーネグミやらたけのこの里やらを買っていく。そういえば今週のジャンプもまだ読んでいなかったので、さっとONE PIECEだけ流し読みしてから店を出る。
Fの家は上り坂の途中にあった。早速長崎の洗礼を受けることになる。
パンパンの25Lのバックパックを背負いながら、満杯の50Lのキャリーバッグを引いて上り坂や階段を上がるのはなかなかきつい。
何度か道に迷い、ようやく家を見つけた時には既に汗だく。
インターホンを鳴らすと、すぐにFが出てきた。
「やーやー、久しぶり」とぼくが言い、
「おっす、お疲れ」と彼が答える。
Fは、2年前に札幌の街中にあるゲストハウスで知り合った友人だ。同じ時期に、住み込みで働いていた。以降2年間、ぼくは関東、彼は長崎と空間的に離れた地に住んでいたこともあり(またぼくが1年間留学していたこともあり)、会うことはなかった。
札幌で共に過ごした時間はわずか2週間だったが、それが彼と2年ぶりに会うことに関して何ら障壁をつくることはなかった。
彼はシェアハウスに住んでいて、空いている一室を貸してもらう。
ようやく重い荷物から解放される。
Fはこれからアルバイトに行くというので、ぼくもそれについて外に出ることにした。どうせここで外出しなければ、だらだらと寝込んで夜まで起きないことは目に見えている。
FとFの同居人のO君と路面電車の駅へ向かう。
道路上を車と並行して電車が行き交う光景に、欧州の街並みがフラッシュバックする。
Fとは夜にどこかで合流して飲みに行くことだけ約束して、途中の駅で別れる。
特段行く当てもないので、適当に街の中心からはじめてふらふらと散歩することにした。
切り取られた風景も、ぼくにとっては新鮮な景色ではあるが、日常の匂いが同時に染み付いている。ここにしかない景色のはずなのに、そこに大きな意味を感じることができない。
横断歩道では人が行き交っている。昨日もそうだったのだろうし、おそらく明日もそうだろう。
公園。水面は絶え間なく揺れている。
旅人でも、旅行者でもないとすれば、ぼくは今何者としてこの場にいるのだろう?長崎の日常に溶け込んだ存在でもない、かといって安易に”旅行者”でもありたくもない。
意味を挑発するように、”旅”や”旅行”によって敢えて定義せずに今回の移動をしてきたが、意味を葬り去ろうと試みた先には、虚無感に近しいものが待ち構えていた。
困ったもんだ。
この移動に、どんな意味付けをすればよいのだろう?答えは、九州を巡り終えるころには見つかっているのだろうか?
何はともあれ、景色は綺麗。
意味が云々、文脈が云々と言葉で理論武装しようとするけれど、美しい色々に気持ちが良くなるのもまた事実。
安っぽい感傷に浸ってばかりいてもしょうがない。
今夜は、Fが歓迎のために居酒屋を予約してくれている。
路面電車に乗って、その方向へ向かう。
〈続く〉