初版 ぼく語辞典

ヒッチハイクなんてするもんじゃない。【九州移動 前日譚②】

諸事情で、九州を巡ることにした。

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前回『移動』するということはつまり云々……と偉そうに高説を垂らしてしまったので、肝心の移動方法についても少し時間を割いて書こうと思う。

九州のまわりかた

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予定を立てることも苦手であれば、予定を履行することもまた不得手である。九州移動の計画は全く出来上がらない。

まず出発日が定まらない。

 

確実に決まっていることと言えば、移動方法はヒッチハイクであるということ。それだけだ。

 

徒歩、自転車、スケートボード、自家用車
バス、電車、新幹線、飛行機、船………

 

ぼくらが今いるここから別の何処かへと移動する際には、様々な手段が考えられる。

九州を巡るにあたって、まずは徒歩を候補から除外だ。時間がかかりすぎるし、連続歩行がイコール苦行であることは身に沁みて知っている。

自転車もノー。長距離移動に適したスポーツバイクは持っていなかったし、借りられるようなお金もない。

スケートボード。New YorkからChicagoまでボードで移動した友人(アメリカ人、当時高校生)がいるので、その情報を鑑みるに九州をボードで回ることも不可能ではないのだろう。が、カメラやら本やらの大量の荷物とともにボードに乗るのはあまり現実的ではない。却下。

自家用車。持ってない。

バスと電車は前向きに検討。メインの手段には据えないが、いざとなった場合には使うつもりでいる。

新幹線。価格が高いので却下。

飛行機。高い。空港までいちいち行くのが面倒。

船。今回に関しては内陸移動がメインなので、初めから候補には入っていない(船旅自体は常に憧れているし、実際以前した)。

 

そうしてあれもこれもと選択肢を消去していった結果残るのは、ヒッチハイクだった。

同時に、「ヒッチハイクなんて、移動のための手段として選択するものではない」とも思う。
非効率的過ぎる。電車や車で2~3時間程度で着ける場所へ、どうして5時間や6時間もかけて行かなくてはならないのか。

それを承知の上で敢えて断行するというのであれば、ある程度の理由が求められる。少なくともこうして文章にする以上、直観的なパッションにも、それらしい言葉でいかにもな箔付けをした説明が必要であろう。

 

それでもヒッチハイクを選ぶわけ

イタリアのフィレンツェを訪れたときのことだった(2018年3月)。ミケランジェロが造ったダヴィデ像は今日もアカデミア美術館で佇み、ウフィツィ美術館ではヴィーナスが誕生し、街の中心にはジョットの建てた鐘楼が堂々と鎮座する、あのフィレンツェである。

ミケランジェロ広場と呼ばれる少し小高い丘の上から、街を一望できるのだが、そこからの眺めは、半年後のぼくにヒッチハイクをせざるを得なくさせた。

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間違いなく、疑いもなく、『美しい』眺めだった。
統一的な色合い。上品に醸し出される中世の空気。

 

同時にぼんやりとした空虚さが、どこからか生まれてくるのを感じた。
日本を遠く離れて来てまで、取るに足らない無知なる学生の身分で、これ以上どんな贅沢を望めるというのだろう。

それでも何か物足りなさにも似た曖昧な感覚を拭おうとするほど、その存在感は却って強くなるばかりだった。

 

フィレンツェの街並みの『美しさ』に対する納得は、満足感とは異なるものだったのだ。

納得、という言葉はそもそも適切ではないかもしれない。納得というよりもむしろ、確認と言ったほうが良さそうだ。
広がっているのは、美しい景色であり、フィレンツェにしかあり得ない景色であり、そしてガイドブックに載っている景色だった

地球の歩き方や、るるぶやLonely Planetやネットで何度も見たことのある、フィレンツェの街並みが目の前に広がっていた。

ぼくは〈フィレンツェの街並みは美しい〉という知識を確認しに来ただけのように思えてきた。

 

それに対して抱いた感情が不満と呼ぶべきものだったのか。分からないが、息をのむフィレンツェの圧倒的光景を前にして、それでもなお完膚なきまでの満足感を得たかと言えばそれもまた違う。足るを知り切れない。


自分の五感で体験することが何よりの財産だと言う者もいる。素材が同じでも、結局自分が何を感じるかのだから、満足できるかどうかは当人の感受性の問題(あるいは責任)と語る者もいる。その全てはきっと正しい。そして部分的に正しくない、少なくともぼく個人にとっては。

 

ぼくの抱く邪気の正体はおそらく、誰かの追体験的にこの眺めに臨んでいるという事実だろう。

今までどれくらいの人が、フィレンツェで暮らしてきたのだろう?何人の人間がこの街を訪れたのだろう?

この景色を前にして、色々なことを感じることができる。だがそれはそれとして、そこで抱いた感情は、果たして本当に自分自身『だけ』のものなのだろうか?

「綺麗だった」

「美しかった」

そんな言葉で括ってしまえるような体験に、自分固有の意味があるのだろうか?

 

依然曖昧なこの違和感はどのように拭うべきだろう。

目的の『地』そのものに価値を見出せないのであれば、そこに至るまでの『過程』の側に彩りを求めようか。

 

 

バスや電車の移動も良い。車窓越しに流れゆく風景を眺めていると、断片的なロードムービーを見ているような満足感を得られる。

でも今回に関しては、バスや電車に乗ってしまっては、フィレンツェで踏んだ轍を性懲りもなく、再び裸足で踏むようなものだ。

福岡やら長崎に行くこと自体は重要ではない。

その地で、あるいはその地に着くまでの間で『誰』に会うかが大事なことだった。

せっかく1人で好き勝手に移動できるのであれば、真に自分だけの体験をしたかった。

「ヒッチハイクなんてするもんじゃない」と頭では思いながら、結局のところしてしまうのは、詰まるところ圧倒的我儘によりなせる業である。

そんなわけで、理屈やら駄々を一人でこねてこねて、ヒッチハイクをすることになってしまった。

 

ーーとまあ、四の五の石橋をたたくように理論武装をしてきたが(そして依然あまりまとまっていないが)、ようやく重い腰をあげて、九州移動を始めるときがやってきた。9月7日のことである。

〈続く↓〉

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