初版 ぼく語辞典

【留学雑記】ダ・ヴィンチ先生、こんにちは。~「もったいない」小話

サモアのニケさん、こんにちは。
ダヴィド君は今日も真面目。アンクルさんの描く女性はいつも優美。
 

f:id:ABBshu:20180222063412j:plain

 
1月、パリ。ルーヴル美術館にやって来た。
ミュージアムはいつも、何か新しいことを発見させてくれる。
過去に生きていた多種多様な人間の人生や思想が、様々な方法で集約されている。
 
今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチ先生による講義。
 

ルーヴル美術館 モナ・リザ前にて

パリ滞在期間、ルーヴル美術館は4度ほど訪れた(26歳以下の欧州の学生は無料で入れる)。
そして4回とも見ることのできた印象的な光景がある。

f:id:ABBshu:20180222062128j:plain

モナ・リザの前に集まる人々。
じっくりと絵を見入る人もいれば、スマホに写真を一枚おさめてすぐに去る人もいる。
パリに来た記念か、自撮りをして次へ向かう人も大勢。
 
彼らにとって、ここでレンズにおさめる対象が、モナ・リザである必要性はどれほどだろうか。
パリやフランスに来た記念が欲しいのならば、エッフェル塔・凱旋門・ノートルダム大聖堂でも、人によってはフランス語表記のトイレの看板でも、代替可能である(実際、それらの観光地の周りでも記念写真を撮る観光者はいつもいる。トイレについては見たことはないが、僕自身は趣味でピクトグラムを時々撮っている。閑話休題)。
 
 
ちなみに同じダ・ヴィンチ作の『洗礼者ヨハネ』『岩窟の聖母』の様子はこちら。

f:id:ABBshu:20180222062205j:plain

 時々ツアー団体が解説員と共にやってくるが、個人の鑑賞者の足はまばら。
 
 
 
 
金の無駄だなあ。
来てる意味あんのかな。
自分の意思もってんのかな。
 
 
 
時間とお金を、その場の満足感のために消費している(ように少なくとも見える)人たちを眺めていると、思わずそんな考えも湧き上がってくる。
しかし、改めて考えてみれば僕の方がよっぽど浅はかだ。
彼らの人生の数秒だけを根拠に、一部が全部と言わんばかりの否定を下しているのだから。
 
 
代わりに『もったいない』、という言葉をひとまず使う。
 
左右の背景の違いに隠された謎。
スフマート技法による、色彩の自然な繊細な移り変わり。
 
という知識。

思ったよりも小さいんだなあ。
しかしその等身大のサイズゆえに、こちらが鑑賞しているつもりが、気付けば逆に向こうから観られているような、ゾッとする感覚。

しばらく眼を合わせ合った後、背中を向けて去る。いつまでもいつまでも、脳裏に見つめ合った時の彼女の顔が焼き付いて離れない。ダ・ヴィンチの描く人物は、甘いマスクをしている。
見ていると、気持ちがとろけるように、妙に穏やかになってくる。そして気が付けば、脳裏に焼き付き、逃れようとしても逃れられない。中毒のよう。
 
という印象。
 
何かたった一つでも気になることを見つけられたなら御の字だ。せめて、たった1つでもいい。自分だけの発見をしたい。
無駄はできるだけ無くしたい。
あらゆる行動は、時間ないしお金、あるいはその両方を使って行われる。コストパフォーマンスを高くするに越したことはない。
 
そしてその違和感や感想を次に繋がるには、調べたり発信したりすることだ。
 
観光の目的に関して、東浩紀氏の著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』に、印象的な文章がある。
 
「旅は『自分』ではなく『検索キーワード』を変える
 
  ぼくらはいま、ネットで世界中の情報が検索できる、世界中と繋がっていると思っています。台湾についても、インドについても、検索すればなんでもわかると思っています。しかし実際には、身体がどういう環境にあるかで、検索する言葉は変わる。欲望の状態で検索する言葉は変わり、見えてくる世界が変わる。裏返して言えば、いくら情報が溢れていても、適切な欲望がないとどうしようもない。
 
「『ツーリズム』(観光)の語源は、宗教における聖地巡礼(ツアー)ですが、そもそも巡礼者は目的地になにがあるのかすべて事前に知っている。にもかかわらず、時間をかけて目的地を廻るその道中で、じっくりものを考え、思考を深めることができる。観光=巡礼はその時間を確保するためにある。旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。
 

表現方法について

あの時違和感と出会えたことは、決して間違いではない。
しかし、違和感に端を発した感情の、適切な表現の仕方はないものだろうか。
いくら何かを思っても、それを何らかの形で表に出さなければ、社会の中でそれは存在していないも同然だ。
 
この鈍色の感情は、いつになったら何トンもの雑物を取り払って、金色に輝く?
 
 
大口を叩くところまでは良いものの、この先どうしよう。
口先だけはまずいだろう。
 
このモヤモヤ感を旋律にのせて、皆の鼓膜と心を震わせようか。ああ、でもそういえば、僕は楽器を1つも持っていないし、そもそもリコーダーと鍵盤ハーモニカしか習ったことがないんだった。
 
絵画から受けた印象は、視覚言語で表すのが一番だ!
と、筆とカンヴァスを持ってみたは良いが、結局納得できるものは生まれてこなかった。
 
そういうわけで、結果的に、こうして文章という表現形式を用いて出来事の翻訳を試みている。結局、今のところこれが僕の一番使いこなせる、感情の翻訳方法である。
 
一匹狼の『口先』は、新たにこうして『指先』という仲間を得て、少しご満悦。
ああ、でもここで満足したら、もったいないんだったけね。
 

まとめ

一度何かに満足したら、何か取りこぼしがないかすぐに考えてみよう。
ある立場から、取りこぼしをしている様子を見て、「あいつは何にも分かってねえなあ」と否定するのは簡単だ。けれど、そこからは何も生まれない。
 
『もったいない』は、余地の可能性を信じる表現だ。
 その意識を持って、自分が知っていて相手の知らないことに関して話していきたいし、またその逆も然り。
 
満足や否定こそ、もったいない。
 
それではダ・ヴィンチ先生。
本日は500年を経てのご講義ありがとうございました。
 
次回までに提出の課題は、文章と物語という形で表現された、この留学のアウトプットということで。では、また。