初版 ぼく語辞典

【留学雑記】スリに遭った時に助けてくれた、名も知らぬ彼へ。

Labdien~

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1月、パリでスリの被害に遭った。
 
 
少し具体的に状況を説明すると、時間はルーヴル閉館直後の18時過ぎ。場所はルーヴル美術館入り口のピラミッド周辺。
 
 
原因は完全に僕の油断だ。
日本を出た生活を始めてからおよそ4か月半が経った頃。車の運転にしても海外生活にしても、慣れてきた時期が一番危ない。僕の気は、そうとは思わぬうちに緩み切っていた。
 
僕はルーヴル美術館のピラミッドの、正面入り口から見て左後ろ側の角で写真を撮ろうとしていた。それも、鞄を足元に置いて。
 
 
1人のフランス人青年が近づいてきて何事か話しかけてきた。
英語は出来ないようだった。フランス語だが、何となく言わんとしていることは分かる。「日本人か?中国人か?」
 
後ろで気配がした。
もう一人、別のフランス人青年がいた。顔は違うが表情は似ている。薄気味悪い笑顔。無理に愛想よくしようとしているのが伝わってくるから、なおさら気味が悪い。
足元の鞄の位置がわずかに動いていたのが分かった。
つまりこれはスリだということも察した。
そしてそうこう解釈している一瞬の隙に、僕のポケットからスマートフォンが抜き取られたような違和感も分かった。
3つの理解が、ほぼ間髪入れず連続的に起こった。
 
"Men! Where is my phon......"
 
瞬間、目の前から青年が消えた。
そこから数秒間は映像としての記憶はない。しかし何が起こったのかはその後目に入った光景から想像できる。
しかし、想像の映像内の登場人物の数に対して、明らかに1人多い。
 

  1. 僕のスマートフォンがスられる。
  2. 瞬間私服警官が飛び出してきて、青年を地面に押さえつけて現行犯逮捕する。
  3. 僕の背後にいたもう1人の犯人も、別の警官によって地べたに拘束されている。
 
この順序で今が出来上がったはずだ。
ここでは、登場人物は僕と警官2人に犯人2人。計『5人』。
 
しかし、今この犯行未遂現場には僕も含めて『6人』いる。犯人のすぐそばで横に倒れて唸っている男は誰だ?
僕の目の前、手前側には僕に初めに話しかけてきた犯人と、それを取り押さえる私服警官。ほんの少し離れて奥手には、もう一人の犯人・警察と、見知らぬ男。右脚を苦しそうに押さえている。ひたすらにずっと、痛みを我慢するかのように唸り声をあげつづけている。
 
 
若い私服警官は、地べたに後ろ手を組まされて取り押さえられている犯人の手首に手錠をかける。
「安心しなさい。私はパリ市の警官だ」
警官は英語を少し話せるようだった。非日常的状態だというのに、頭は妙に冴えていた。
 
ああ、この人警官なのか。この薄笑い野郎は捕まったのか。今ルーヴルの入り口で知人を待たせてるなあ。困ったなあ。ジョジョ4部のラスボス戦で、承太郎たちがたった1本離れた道での仗助と吉良の戦いに気づかないのはおかしいと思っていたけれど、実際こんな感じかあ(実際今このルーヴル入り口のピラミッド周辺は暗いし、広いエリアの片隅で起きたことなので、周囲以外には何かが起こっているなんて気づかれてもいない)。あ、そうかスマホ返ってくるから、今連絡もできるのか。そうかそうか。良かった良かった…………

 
2人の警官はフランス語でどこかに電話している。
おそらくパリ市のどこかの警察署だろう。これからパトカーが来ること、いったん署まで一緒に行って事情聴取をする必要がある旨を伝えられた。
実はこの後知人と凱旋門に行く予定があったので、僕は少し怪訝な顔をしてしまった。「すまないけど、それが法律なんだ」と申し訳なく諭すように言われ、僕は自分の傲慢を恥じる。
 
 
横たわってうめいている男――20代半ば、身長175cmほどだろうか。力強いがたいをしている――とも、警官たちは何かを話していた。
初めは真剣な顔で。やがてお互いに笑いながら、何か冗談を言い合っているよう。警官の方はやれやれといった微笑。男の方は、軽く声をあげながら笑っている。
つまり、この人は『味方』らしい。

 
ああ、そうか。
この男が誰なのかを、やっと理解できた。
つまり、この男は、犯人の取り押さえに協力してくれた一般市民なんだ。
警察が動き出したのを見て、犯人逮捕の協力のために動き(そしてその際に何がどう絡み合ったかは僕の背後で起こっていたことなので詳しくは分からないが)、結果的にそれが原因で脚に怪我を負ったのだ。
脳内で展開された映像と、目の前の現実がやっと一つに繋がった。
頭が冴えているつもりで、何も冴えてやしない。
 
 
しばらくして、救急車がルーヴル正面の車道にやって来たのが見えた。隊員たちが走ってやってくる。
なかなか警官たちがこの場から動かなかったのは、これを待っていたからか。何度もどこかに電話していたのは、警察署以外に、病院などにも連絡をしていたのだろう。フランスではフランス語が分からないと、状況を把握するのになかなか苦労する。
 
救急隊員は、男が足を痛めているのを尋ね確認し、彼のズボンの右脚側を裾から膝のあたりまで裂いた。そして、彼の脚のすじやふくらはぎのあたりを押す。
先程まで笑い話をしていた男の表情が、途端に苦痛を表すそれに変わる。表情だけではない。耐え切れずに苦悶の唸り声が思わず彼の口から漏れる。筋肉を傷めたか、脚をあらぬ方向にひねったか……。
 
 
この注意散漫なバカな観光者のために、1人の善良なフランス人青年が本来必要のなかった被害を被っている。
目の前で起こっていること全ては、ただ時間が過ぎるとともに起こり続けている。

僕は、果たして目の前で同じことが起きたのならば、彼と同じ行動を取ることができていただろうか。
答えは、おそらく、”間違いなく”に近い”おそらく”で、ノーだ。
 
 
犯人を捕まえようとすることで、彼自身が直接得られるメリットは、おそらくない。
ではなぜ自身の危険も省みず、見ず知らずの人間のために突発的に動いたのか。その動機は何だったのか。

彼は、彼にとっては当たり前のような正義のために動いたのだろう。
断言はできない。けれど、それが一番納得のできる解釈だ。
市民のための法が機能している国で、それを犯した者が目の前にいる。それを捕まえるのは、自己批判の余地を問わず、当たり前過ぎることだったのだろうか。
 

彼は、救急隊に脚の痛みを確かめられた後、しばらく深呼吸を繰り返してから落ち着き、隊員らと笑い話を始めていた。
怪我こそ負ったが、平常心なのだろうか。
やがて準備が整い、タンカーに彼は載せられ、救急車の方へと運ばれようとしていた。同時に警官らも僕にパトカーがすぐそばに来たからついて来いと指示する。
 
 
救急車とパトカーは別々の通りに止まっていたから、僕らはここで別れなくてはいけない。まだ一言も会話していないし、名前も知らない男から受けた恩を、僕は彼自身にどうやって返せばよいのだろうか。情けないことに、何もできない。
 
”Monsieur, Merci. I mean...Merci Beaucoup...!”
 
拙いフランス語で、知っている言葉を言うしかなかった。
彼自身の行動が、果たして犯人逮捕そのものに絶対に必要であったかどうかは分からない。しかし、彼の行動を促した意志から、僕は少なからず恩を受けている。無下にできない、というよりも、決して無下にしたくない意志。
 
 
僕の価値観とは何だろう。
何を善いと感じ、何を許せぬことと思うのだろう。
そんなことを思いながら、警察署で事情聴取を受けるのを待っていた。

 
彼に直接返せなかった恩。
彼自身が見返りを求めていなかったとしたら、借り受けたこの恩は、僕自身の意志に基づく行動で、少しづつ誰かに送っていこう。

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