初版 ぼく語辞典

旅ではない、旅行でもない、移動の記録。【九州移動 前日譚】

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「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」(松尾芭蕉『奥の細道』)

 あるいは、

「私は常に思つてゐる。人生は旅である」(若山牧水『独り歌へる』)

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人生はしばしば、旅に喩えられる。

人生は旅行というよりも、旅であるらしい。
人生、なんて大きな言葉に重ねられるくらいだから、『旅』にもまた安易には捉えきれぬ何かがある。雲を掴もうとするように、近づきすぎれば見失い、遠ざかればその大きさに圧倒されるような。

『旅行』はそれに比べれば、少し俗っぽいというか、近しすぎるというか、まあこれは個人の偏見であるが。

旅、たび、タビ……

皆、『旅行』よりも『旅』に憧れるのだろうか。
今日もSNSを覗けば、「旅したい」「○○弾丸一人旅!」「#ぶらり旅」………

どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きるように、同じ言葉ばかり見ていると疲れてきちゃうよ。

大量に消費された言葉は、その重みを急速に失っていく。
それもこれも、ぼくと彼らで、ある単語に抱く意味合いが異なるからだろうし、仕方がないことだ。

今夏諸々『旅』的なものをしてきたのだが、その記録を『旅』以外のどのような枠を用いて構成しようか悩んでいる途上である。

『旅』に含まれるニュアンスには、個人差があり過ぎる。

 

いわゆる『旅』なるものが、人の一生のメタファーになり得ることに関して異論はない。

観光地を効率的にまわるか、それとも敢えて大きな目的を定めないで気の向くまま(というのが一番難しいと思うのだが)非日常的空間を巡るか、『旅』の計画・設計をどのようにたてるか、何を見、何を味わい、何を楽しむか。

『旅』には個人の人生観——という言葉が大仰ならば、嗜好や価値観、とでもいいましょうか——が如実に表れる。
観光地を浅く広く巡りまくるのか、何か少数のことを狭く深く探求するのか。計画的に『旅』をできない人は、人生設計も苦手だろうとも思う。

 

『人生』のメタファーだからだろうか。孤高な雰囲気が醸し出すのだろうか。
『たび』という響きには何か崇高な意味合いが付与されているように感じる。少なくとも、特別なものとして扱われているきらいがある。

 

「あべべ、また旅してきたの?」と路上で友人が尋ねてくる。
勘弁してくれ。
君はポール・スミスやアルマーニのスーツを着て授業に出席するのか。こんな道端で、そんな『高級』な言葉は使うもんじゃない。

 

ちょっと違うか。

 

いずれにしても、『旅』を使われたときに、ムズムズするのは確かだ。響きに対する悪意なき解釈のずれに起因する違和感だろうが、それを我慢できるほど大人にはなり切れていない。
ムズムズは、いよいよ指先でキーボードを叩くためのエネルギーに変換され、ここに至る。

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2018年9月に、九州を一周してきた。

留学をきっかけに日本各地を見聞したくなったと言うこともできるし、未だ九州を目的地として行ったことがなかったので直接訪れたくなったという安易な理由を当てはめることもできる。一周の理由は様々あるが、それは追々述べていこう。


前置きが長くなったが、これから綴るのはとにかく、九州一周の記録である。

これは、『旅』というよりは『移動』の記録だ。

目的地に行くこと自体には大した意味はなかった。
街に行けば何が在るかは、ある程度調べれば簡単に分かる時代だ。
写真で見た通りの景色も、美味しいと噂の店も、行くし、見る。

けれど、確認作業からは大きな満足は得られない。
それは誰かの経験をなぞっているだけで、発見の歓びがないからだ。
むしろその確認(=目的地へ身をおくこと)に至るまでの過程にこそ、彩りと味わい深さを求める。

 

あの移動にいかなる意味があったのか。
それは振り返ってみないことには、まだ分からない。
これはぼくが今夏体験した、九州移動という現象の記録である。

〈続く〉