初版 ぼく語辞典

乱視と卵子

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最近、眼鏡が壊れた。

落下の衝撃が全体に均等にかかったのか、もともとダメージが蓄積されていたのか。
3年間を共にした相棒は、綺麗に真っ二つになってしまった。

南無。

 

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思えば、色んなことがあった。
3年前、大学入学を期に、それまで使っていた細フレームとは違う新しい眼鏡を購入した。ウェリントンモデルによる意図的な『イメチェン』を試みた。

 

それからは色んなことがあった。
大学生活における視覚的記憶の99%は、この左右のレンズを通した景色。
ぼくの大学生活は、この眼鏡の歴史とはっきりと重なり合う。

大きな出来事と言えば、昨年スケートボードをしていて転倒したときのこと。

滑りの良いアスファルトの道で思い切り転び、顔や腕に何カ所も擦り傷を負った。
ぼくの眼鏡もその勢いで道端のどこかに吹っ飛んでいった。
「メガネ、メガネ……」と、何かの漫画で見たシーンを再現するかのように探す。
見つけた時、それでも眼鏡は無事だった。当の使用者であるぼくの方がよっぽど傷ついている。

 

しかしダメージはやはり蓄積されていたのかもしれない。

 

そして今。
眼鏡を手元から落ちた瞬間、なぜだろう、「あっ」と悪い予感がした。

ドラマで流れ出したBGMで次の展開の方向が予測できるように、この何となくの予感からの自然な延長で、起こるべきことは起こった。

パキッという無機質な音と共に、フレームは綺麗に2つに割れた。
享年3年と3ヶ月。
 

 

いつぶりか分からないほど久しぶりに、裸眼で街を歩くという体験をした。

思えば7歳の頃から乱視用の眼鏡をかけている。

寝ている時と起床直後の数分、海やプールで泳ぐとき。それから普段とのギャップを狙うため、眼鏡をとって格好つけようとするとき。それ以外は、ほぼ外すことはない。

 

久々に裸眼で歩いてみると、どうもぼくの眼の問題は視力の低さよりも、『乱視』の方にあることに気が付いた。
何が書かれているか分からない看板や、通り行く人の表情も、目を細めてみると意外と見えないこともない(肯定をするのに二重否定を用いる程度には、視力も悪い)。

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一体いつの間にだろう。はっきりと見えなくとも、感覚で生活できてしまう程度にはこのリガの街での生活には慣れきってしまった。

スーパーの場所も分かる。どこで何を買えばよいのか分かる。帰り道も知っている。部屋の鍵も持っている。帰って眠れば明日がやってくる。

 

一体いつの間にだろう。もうすぐこの街での生活も終わる。
留学期間は、残り1ヶ月程度しかない。
いざ終わりが見えてくると、「ヨーロッパを離れたくない」という思いが湧き上がってくる。
そういえば去年、日本からの出国直前時には、「日本を離れたくないよう。大学の友達と別れたくないよう」という気持ちに苛まれていた。

 

結局、どこに行っても『今』にしがみつきたいという願望は変わらない。

新しい『何か』を生み出すためには、現状維持ではやっていけない。意識的な変化が必要だ。生みの苦しみを経なくてはいけない。
それが、『努力』や『覚悟』と呼ばれるものなのだろう。

 

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街の風景をぼんやりと眺めながら歩いて行く。
ぼくの好きな歌手・YUKIの『笑いとばせ』という曲の歌詞がふいに頭の中で流れ出した。

今さらどうかと思うが 根っからの乱視です
光と影のプリズム 裸眼で反射をしてひるがえす
綺麗 

 

綺麗?

ある物を失って、突然新たに現れたぼんやりとした景色。
等身大のこの光景を、綺麗と思うことができたら。

失ったことによって、新たに生まれたことを見つけ、気づき、活かす過程が、何かを生むことであり、生みの苦しみであるのかもしれない。

コトは捉えよう。

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乱視。らんし。卵子。

このまるい景色からは、何かは生まれるだろうか。